貧困問題から考える、努力万能主義について

先進国トップレベルの日本でも貧困問題は氷河期世代以降から相変わらず長く続いていて、今でも依然としてよく話題になるほどです。
貧困問題の見方や解決についても様々な意見がありますが、個人的な考えについては以前こちらで説明したとおりです。

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ただ、久しぶりに、貧困層への批判について、重要なことに気が付いたので掘り下げて説明していきます。
貧困者はもともと怠け癖があったりして、貧乏になるのは本人の人生において努力不足だから、というのが貧困者を批判する主な理由のようです。
しかし、これはよく考えると単純明快な論理に見えて実はいくつかの欠陥問題があります。

まず、主張している本人が傲慢になってしまいます。
なぜなら、これは自分個人がそれなりの収入・水準で生活できているのは自分の努力のみのおかげである、さらに貧乏な人たち全員よりも自分は努力しているから偉いと言っているのと等しくなるからです。
まあ、言っている本人が傲慢でもいいのであればそれもいいかもしれませんが、そうでなければ、貧困者を一概に叩き批判するのはどこか矛盾じみているとしか言いようがないでしょう。
その他に、例え貧困者の努力不足が正しいとしてもそれを主張したところで、貧困問題が本質的に解決できるわけでなく、無駄な言動にすぎないことです。
実際に、貧困者といっても実際に様々な人がいます。
貧困者批判には、遊びなどでお金を無駄遣いしたから貧乏になったという意見も多いようですが、何も無駄遣いで貧困になった人はその一部にすぎず、むしろ求職してもまともな収入がある仕事に就けずにやむ得ず貧困になる人が多数という事実もあります。
前者であれば自業自得とか言われても無理もないですが、後者も含めて一緒くたに貧困者批判するのは野暮すぎますし、批判したところで、本人にはストレスなどで何か悪くなることはあっても良く変わることは大してないからです。

貧困問題の貧困者批判における以上のような問題点の背景にあるのは、人間は努力さえすれば何でもできるはずだ、できないことは何もないと考える努力万能主義が正しいと思っているところがあることです。
もちろん、努力すること自体は素晴らしいことで、より良い成果を出すには不可欠なものであることは当然のことです。
むしろ、努力なんて大したことないと思うことのほうが問題です。
しかし一方で、現実にはいくら努力してもできないものはあることは紛れもない事実です。
確かに努力万能主義は夢がありそうで前向きになりやすいところはありますが、かといって、実際にはそれが成り立つとは限らないという現実を否定するのも決して良いとはいえないでしょう。
そもそも先ほど説明したように、個人の努力だけで何でもできる、金持ちになれると決めつけること自体が傲慢だと言えます。
例えばスポーツ界でもどんなに努力しても相手に負けるようなことはいくらでもあります。
それは貧困な人に対しても同じようなことが言えます。
そして、もし自分が何かの不慮や事情で貧困側の立場に立ってしまったら、「貧困は努力不足、自業自得だ」と
声大に言うことができるのか?という話にもなってしまいます。

 

ここで貧困問題自体には一区切りつけて、続きは努力万能主義やそれに関することについてより掘り下げて説明していくつもりです。