読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

個人努力万能論の問題についての続き

前の記事で取り上げた努力万能主義についての続きです。

「人間懸命に頑張って努力すれば何でもできる」というのは昔からよく言われることであり、確かに夢や希望を感じるような言葉なのは言うまでもないことです。しかし、悲しいかな、前に説明したとおり、現実面ではこういう思想は完全に正しいとは言えないことも確かです。

もちろん、全くのトンデモというわけでもなく、何事も努力したほうが成功率が幾分上がるのは当然のことですし、また例え成功しなくても努力することに何らかの価値があるとも言えます。

ここで問題となるのは、一つ目は誰しも努力すれば不可能なことはないと思い込むことで、逆に失敗したり、何かの問題に巻き込まれた場合、その本人が努力を怠ったから自業自得だと単純に非難してしまうことにつながることです。

それが貧困問題をはじめ、いじめ被害、さらには犯罪や災害などの被害者にまで、それらに遭ってしまうような本人が悪いんだという人まで出てしまうこともあるのです。

いずれにしても、何かに失敗したりつらい目に遭ったりした当人を努力不足だと責めたところで、害はあっても何も良くなることはなくただの無駄に終わってしまいます。

これが努力万能主義の弊害であるわけです。

では、個人の貧困状態や失敗などに対して、どのように考えるのがいいのでしょうか?

その人がかわいそうだと慰めるのが良いか?いや、単純にそうでもありません。

いくら慰めても一時的に気分が良くなるだけで、根本的に何か良く変わるわけではないからです。

こういうテーマに対しての考え方も多くあって、正直どれが一番良いかははっきりしていないのが現状です。

ここで、個人的に思うことを言えば、まずは人間は誰しもこういう苦しい、つらいことに出会う運命があるのだという現実を素直に受け止めること、そして、そういう運命に遭うことについて、他の誰かのせいにするのでも、また本人自身を責めるのでもなく、その運命とか問題に対して何ができるのかを考えて、可能なら実践するところから始めるのが大切だということです。

つまり、自分含めた何が悪いのかを考えるよりも解決策を意識すべきです。

被害者本人にしても第三者にしても何が悪いのかにこだわるから、問題が余計にこじれてしまうとも言えるのです。

努力万能主義の二つ目の問題は、自分が何か成功したとき、自分の努力だけでこんなにうまくいったんだ、自分はこんなに偉いところがあると思い込んでしまうことです。

つまり、本当の傲慢な状態になってしまうことです。こんなことになったら、人間関係にも何か歪みが生じてしまいますし、ものの見方が狭く偏ってしまう危険性もあるでしょう。

実際のところ、個人が何か成功した原因には、本人の努力だけでなく、周囲の人たちが関わっていれば、その人たちの助けや支えのおかげでもあるし、何よりも周囲の状況やさらには運も大きく関わっていることが多いと言えます。

つまり、何か成功したら、自分が努力したからと偉く思うのではなく、関わった多くの人や環境のおかげも大いにあるという感謝の気持ちや謙遜さも忘れずにすることが大事です。そうすることで物の見方もより広がり、本当の意味で自分自身が成長するのでしょう。

以上のように、努力万能主義は一見素晴らしいようで、色々な意味で問題ある考え方であります。いくら努力が重要だといっても、物事の成功や失敗は単に努力だけでなく、様々な多くの要素が関わっていることを忘れずにするのも大事です。

貧困問題から考える、努力万能主義について

先進国トップレベルの日本でも貧困問題は氷河期世代以降から相変わらず長く続いていて、今でも依然としてよく話題になるほどです。
貧困問題の見方や解決についても様々な意見がありますが、個人的な考えについては以前こちらで説明したとおりです。

年末で最近思ったことまとめ その1 - telgipの日記

ただ、久しぶりに、貧困層への批判について、重要なことに気が付いたので掘り下げて説明していきます。
貧困者はもともと怠け癖があったりして、貧乏になるのは本人の人生において努力不足だから、というのが貧困者を批判する主な理由のようです。
しかし、これはよく考えると単純明快な論理に見えて実はいくつかの欠陥問題があります。

まず、主張している本人が傲慢になってしまいます。
なぜなら、これは自分個人がそれなりの収入・水準で生活できているのは自分の努力のみのおかげである、さらに貧乏な人たち全員よりも自分は努力しているから偉いと言っているのと等しくなるからです。
まあ、言っている本人が傲慢でもいいのであればそれもいいかもしれませんが、そうでなければ、貧困者を一概に叩き批判するのはどこか矛盾じみているとしか言いようがないでしょう。
その他に、例え貧困者の努力不足が正しいとしてもそれを主張したところで、貧困問題が本質的に解決できるわけでなく、無駄な言動にすぎないことです。
実際に、貧困者といっても実際に様々な人がいます。
貧困者批判には、遊びなどでお金を無駄遣いしたから貧乏になったという意見も多いようですが、何も無駄遣いで貧困になった人はその一部にすぎず、むしろ求職してもまともな収入がある仕事に就けずにやむ得ず貧困になる人が多数という事実もあります。
前者であれば自業自得とか言われても無理もないですが、後者も含めて一緒くたに貧困者批判するのは野暮すぎますし、批判したところで、本人にはストレスなどで何か悪くなることはあっても良く変わることは大してないからです。

貧困問題の貧困者批判における以上のような問題点の背景にあるのは、人間は努力さえすれば何でもできるはずだ、できないことは何もないと考える努力万能主義が正しいと思っているところがあることです。
もちろん、努力すること自体は素晴らしいことで、より良い成果を出すには不可欠なものであることは当然のことです。
むしろ、努力なんて大したことないと思うことのほうが問題です。
しかし一方で、現実にはいくら努力してもできないものはあることは紛れもない事実です。
確かに努力万能主義は夢がありそうで前向きになりやすいところはありますが、かといって、実際にはそれが成り立つとは限らないという現実を否定するのも決して良いとはいえないでしょう。
そもそも先ほど説明したように、個人の努力だけで何でもできる、金持ちになれると決めつけること自体が傲慢だと言えます。
例えばスポーツ界でもどんなに努力しても相手に負けるようなことはいくらでもあります。
それは貧困な人に対しても同じようなことが言えます。
そして、もし自分が何かの不慮や事情で貧困側の立場に立ってしまったら、「貧困は努力不足、自業自得だ」と
声大に言うことができるのか?という話にもなってしまいます。

 

ここで貧困問題自体には一区切りつけて、続きは努力万能主義やそれに関することについてより掘り下げて説明していくつもりです。

小中学生のSNS利用はやはり早すぎ

スマホの普及が大人のみならず低年齢の少年少女にまで行き届くようになっているが、
一方でスマホで最も利用されるLINEなどのSNSアプリの危険性もかなり高く、特に小中高生を中心にネットいじめや個人情報漏れ、出会い系のトラブルなど多くの問題を起こしているのは言うまでもないことだろう。
そこで、多くの学校がLINEなどのSNSを利用禁止していて、中にはスマホ自体の持ち込み禁止や利用制限をしているところもあるそうです。
こういう問題をみて個人的に思うことはやはり小中学生の年代にはスマホ利用、特にSNSの利用はまだ早すぎるから利用させないのがいいということです。
LINEスマホ禁止と言うと、それに反発する少年少女も多く、それ自体は悪くない、そのツールの使い方が問題だという意見もあります。
しかし、テレビやゲームなどとは違ってLINEは本来少なくとも小中学生向けに作られたものではなく、その分子供には危険性が高くなるので、ひと昔前から小中学校で禁止していたゲームセンターと同じく、利用禁止でいいでしょう。

そもそも数年前まではスマホも普及していなくて、 中高生などがガラケーメーリングリストでのやり取りしてましたしね。
ガラケーでも学校裏サイトなどのネットいじめ問題はありましたが、スマホのLINEはそれより危険性が高いだけのことです。
スマホ自体は子供にとってかなりの贅沢だし、中学生まではガラケーで十分と言えるぐらいでしょう。
あと、ゲームも課金制スマホゲーの他にも携帯ゲーム機やPCのフリーゲームなどいくらでもありますしね。

科学のあり方と相対主義と実在論(2)

早くも大晦日を迎えましたが、前回記事の続きです。

 

前回では科学は真実の唯一性を前提にしつつ、人間の主観性や相対性の要素も認めるのが望ましいという一つの結論がでました。ここから発展して重要な事の一つとして、主観性と客観性の重要性について、自然科学とそれ以外の人文系などの学問とで分けて考察すべきだということです。

人文系学問では、主観的な人間の心を主体的に扱うので、当然主観性を基本とした体系や内容になります。それに対して自然科学は人間の心に対しての自然や世界の本質・法則性などを中心に扱うので、客観性を最重要視せざるを得ないということです。また、数学においても、厳密な論理性が必須である点で、客観性が重視されます。

一方で、社会系科学では、人間の主観性が重要とされがちですが、自然や数理的論理の要素も積極的に取り入れる点で客観性も重視され、科学と人文学の中間にあたると考えられます。

さらに、自然科学や人文学などの比較考察においては、主観・客観の軸とは別に普遍・個別の軸で考察することもよくあります。一般的な傾向として、科学は普遍性を重視し、人文学は個別性を重視するところがあり、社会系では主観客観性と同様に両者の中間にあたると見られています。

以上述べたことから、科学や数学などで真実性とか客主観観性とかについて議論するには、学問全体から見て科学はどの位置に有り、他の学問と比べて何を重視すべきかを考える必要があるということです。

ただ、このままの状態が続けば、科学と人文学が互いに対立的に分断されたままになってしまうので、最近では社会学やその他学際系学問などを媒介して両者の結びつきを強めていこうとする動きも活発的になっています。このことは、科学も人文学も互いに主観性や客観性の要素をそれなりに認めようということです。

このように、両者とも主観客観のどちらか一方を重視しつつ、他方も認めてお互いに相補的な結び付きを持つことで、学問全体のさらなる発展がより期待されるだろうと個人的に考えています。

ということで科学哲学の話はここで一旦締めておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

科学のあり方と相対主義と実在論について(1)

前記事では相対主義的な科学の問題について扱ったが、そこには、真実は一つとして実在するのかについてテーマとした相対主義実在論の相反する二つの立場が大きく関わっているようです。

前記事で取り上げた相対主義は自然法則などのあらゆる真実は一つに定まるものではなく、人間個人ごと、あるいは集団ごとによって多数の異なる真実が生じる考えのことです。

それに対して実在論は本来は人間の思考・認識から独立して多くの事物が存在する考えのことですが、相対主義に対しては、そこから派生して現実世界の真実は人間の思考に関わらず一つとして存在するということを主張します。実際には実在論もかなりの種類がありますが、それについては別の記事で述べていきます。

現代科学界においては当然のことながら圧倒的に実在論的立場が支持されています。しかし一方で、科学も相対主義にすべきだと主張する人々も特に人文系学界でそれなりに存在します。

ここで、相対主義についてより深く掘り下げていきます。

相対主義には道徳的相対主義、審美的相対主義、文化的相対主義、認識的相対主義など多くの分野がありますが、科学に関しては、認識的相対主義に限定して取り扱っています。これは物事の真偽やついての相対主義で、先ほど説明した真実の唯一性にも関わります。

さて、ここで認識的相対主義が科学分野で問題とされる理由についての考察です。科学の本来のあり方が、自然界の本質や真実について客観的に探求・解明していくこととする見方が長い間主流でした。これにより、多くの科学者にとっては真実が一つのものとする実在論と相性が良く、真実は人により異なるとする相対主義と相性が良くないものとされるようです。

それが最近になって、所謂ポストモダンが流行するのに伴い、科学とは「人間社会により理論体系が主観的に構築されたもの」とする相対主義的な見方も出てきました。特に人文社会系分野ではこの相対主義も広まるようになりました。これは伝統的な科学のあり方や実在論と相反するものに近く、多くの科学者がその相対主義を問題視して対立するようになりました。

ここまで来ると、もはや科学の本当の目的とは何かという哲学的なところから揺らいでしまうことになってしまいます。まあそれが現代科学哲学における課題の一つでもあり、それについて議論するのもいいかもしれません。ただここで個人的な見解を述べるとすれば、科学は量子力学などの観点から、主観性や人間的な要素を認めるものの、思考法としてはやはり実在論を前提としていくというあり方が将来の科学にとって最良のものとなるのだと考えております。

 

かなり長くなってしまいましたので、これ以降の話は次記事で説明していきます。

「自然法則も人間が作った?」という主張

前回の記事からかなりブランクが空いてしまったけれども、ここ最近は哲学(特に人間や世界の存在について)にぼちぼち関心を持つようになったりしています。

 

哲学というものは全ての学問の根底であるものだと個人的に思っています。

一方で、最も絶対的な学問は科学だと主張している人もいますが、その科学も、学問、体系としてどうあるべきかを探求する科学哲学というのがありますので、その点で哲学は科学に先立つものだと言えるでしょう。

 

さて、ここで本題に入りますが、自然科学における自然・物理法則は自然界や宇宙世界全体に存在しているというのは言うまでもない常識ですね。

だがしかし、現実社会は本当に広いもので、「自然法則も人間の思考の産物だ」と突飛なことを主張する哲学者や知識人たちも実際に存在します。

こうした考えを「科学的相対主義」と言うようですが、これによればニュートンの力学的法則や電磁気学の各種法則、相対性理論なども自然界に存在せず人間が作り出したものとされるようです。まあ個人的なレベルであればこうした主張があってもあまり問題にならないでしょう。

だがそれもしかし、その考えもなんと文部省が提唱する小学校学習指導要領に書かれていたようです。これは大変驚きました。最も1998年とかなり前の話になりますが。

wikipedia構成主義 (教育)#構成主義と科学教育」参照

構成主義 (教育) - Wikipedia

 

国や公共レベルでこんな極端な相対主義を学校教育に取り入れたのが本当だとしたら、もはやこれは論外レベルの問題だとしか言いようがないでしょう。

こうなってしまうと「○○の法則も✖✖の法則もみな人間が考えて作ったものなんだ」と純粋な子供たちが本気でこう考えてしまう危険性もあって、結果的に現世代の青少年が理科離れどころか狂った科学観を持ってしまうんだろうな・・・と恐ろしく想像してしまったりしています。

 

・・・とまあ、このことから思ったことは、科学哲学というのが科学そのものよりいかに重要なものとして考えていくべきなのだろうかということです。科学は観測者などによる主観的要素もあるものの、客観性を追求するものです。もし主観性を重視したいのであれば、それは科学よりも哲学や人文社会学などの他の学問で扱うべきだと自分は思っています。

 

p.s.) ちなみに中学校学習指導要領の理科においては、法則や原理を人間による発見だ と前提にした内容となっています。つまり、小学校と中学校とで根本的レベルで指導要領の方向性が相反してしまっているので、内容云々以前の問題とも言えるでしょう。

最近よく見られる「エセ常識、トンデモ常識」

新年あけましておめでとうございます。
・・・といっても12日になってますけどね。

ということで、昨年から引き続き気になるネタを投入していきます。

 

今回は意外と身近なところに蔓延しているエセ常識について。

 まず、エセ常識人とは、俗世間の風潮や流行などに振り回されて、ある間違った慣習
などの内容が正しいと信じ込み、それらを疑うのはトンデモだと決め付ける人のことです。
そこで、エセ常識とは→上述の人が持っている傾向がある思想・考え・見解
ということで、最近の主なエセ常識をリストアップして、簡単にまとめあげていきます。


・仕事中でも積極的に他社員との雑談をするほうがいい
→これは一部の限られた職種のみ、多くの場合はこんな余計なことをしたら集中力散漫で
 非効率になります。特に作業系や現場系の仕事では危険性も高くなってしまいます。
 限られたケースだけで全てに当てはまるとは限らないということでしょうか。

・反抗期は誰もが必ず経験すべし、経験しなかった若者はダメ人間になる
→反抗期がなくてももともと良い人格の人もいるし、育て方次第の問題でもある。
 よく言われるのが反抗期経験のない人は自分を抑えすぎというものだが、これも
 人や環境によります。他人への反抗心がもともとない、薄かった人もたくさんいる。
 何でも反抗すればいいというわけでもないですしね。

・結婚をしたいと思うならまず最初に、必ず恋愛を経験しなければならない
(お見合い結婚などを無視している)
→昭和中期までの日本では恋愛結婚よりむしろお見合い結婚のほうが主流であった。
 それが昭和40年代ごろから恋愛がもてはやされて、次第に恋愛結婚が主流になり、
 お見合い結婚は最近まで多くの人に忘れられる存在になってしまうという話である。
 …というようなことがネット上では最近言われるようになっています。

・社会人になっても童貞や処女は人として劣っている、幼稚だ
→これは上のことの派生版。草食系もそうだが、つまり童貞処女は恋愛経験もない人が
 多く、結婚するには幼稚で不適格だからという思い込みになってしまうということ。
 ま、童貞処女の皆さんはこんな風潮に騙されて落ち込まないように、ということか。
 とはいえ、未だに童貞処女は結婚相手対象外という人も少なくないかもしれないが。

・電車内での食事や立ち姿勢での化粧、新聞読みは何にも迷惑をかけないから良い
→若者を中心に(中年以降もか?)こういうことを平気でする人の中に、周りに迷惑を
 かけていないと思う人が多いようだが、実際には場所を広く取ってしまい、周りの人が
 狭く感じてしまったり、特に食事や化粧では匂いが広がることもあるし、何かを
 落として結果周りが汚れてしまうようなこと もあり、意外と迷惑になってしまう
 危険性が高いものです。やはり慎むのが一番でしょうか。

・ポロシャツなどの下裾はズボンの外に出すのがエチケット
→これも学生や若者の間で根付いているエセ常識の一つ。上の世代にとってはむしろ
 下裾を出すのは不格好とされます。
 こういう風潮はいつ広まったのか?について探してみたら見つかりました。
  リンク先(人力検索はてな)→http://q.hatena.ne.jp/1406420248

 これによると、裾を中に入れるのはダサイという風潮はバブル崩壊後の1990年代に
 入ってからのようです。

・いじめられる人が根暗ならその人が悪い、排除するのが良い、いじめは社会文化
 (もはやこれは論外か)
→これは論外で、上げるまでもないと思うところだが、世の中広いもので意外と本気で
 こう思う奴も結構いたりする。
 ま、詳細についてはここ→いじめ容認派の詭弁には笑った! - telgipの日記
 参照するに尽きる。

 

というように、身近によく言われるものだけでも結構たくさんあります。
また、これらとは違いますが、科学の非常識みたいネタもあって、例えば、
・人類は月に到達していない
二酸化炭素による地球温暖化はウソである
といったようなものです。
ただ、今回からしばらくは社会的なエセ常識ついて少しずつ取り上げていきます。