今さらながら原爆投下について語る

8月6日といえば多くの人がすぐに思い浮かぶのが、昭和20年終戦直前の広島原爆投下でしょう。

 

原爆の破壊力は当然ながら凄まじすぎるほどのもので、それによる犠牲者は直接のみで約15万人、その後の二次被害も含めると30万人以上もいて、悲惨だけでは表現しきれないほどですね。

原爆の被害やそれに関する反省とか平和とかの話題は毎年長い間語りつくされてるので、ここでは今更詳しく語るつもりはないでしょう。ただ、その一方で、アメリカなどでは今でも「原爆投下は正しかった」と思っている人も多いことも事実です。

原爆被災地広島・長崎では凄絶な被害の事実がある一方で、原爆投下正当派の人は「原爆投下がなければ世界大戦は続いていた」と主張し続けているので、原爆投下に関する議論も今後長い間絶えないでしょう。

もちろん、自分は原爆投下は肯定・容認するとは少しも思っていませんし、むしろ原爆投下肯定派の考えには反発したいと思っているほどです。ただ一方で、原爆や戦争は悲惨だから正当化するなといくら叫んでも、それだけでは原爆・戦争肯定派がいなくなることは困難だし、それほど大きく世界平和に大きな革新が起こるのも困難だと思います。悲惨すぎるのは当然のこととして、一方で冷静な見方・考えでこの問題を扱うことも必要ですね。

 

と、ここで今日は原爆投下の話を締めたいところですが。

 

一つ気になったのが、話が飛んで先月1周年となった安倍銃撃事件のことですが、「犯人の山上容疑者は英雄だ」「山上容疑者の行動が旧統一〇〇の問題提起につながったし、減刑しろ」と本気で思っている人は、広島長崎の原爆投下正当派と思考がかなり似ていると感じているのは自分だけかとふと思ったところです。

 

早くも安倍元首相一周忌。思うこといろいろ

ブログ書き込みの習慣はなぜかほとんどしてなかったが、早くもあの重大な安倍銃撃事件から1年になってしまった。

 

事件当時は民主主義の妨害、またもや重大なテロだと騒がれた一方で、その後の国葬などで安倍氏に深い追悼の意をこめた人々は当然ながら多かった。

ちょうど1年たった今日ももちろん、この悲惨な事件を忘れずに追悼を捧げる人々が多くて、何よりです。

 

ただ、その一方で、もちろん安倍氏や自民などの政策の支持批判云々は当然自由なんですが、自民と統一〇〇との関係云々で、結果的に自民叩き(さらには安倍叩き)に終始する輩や、さらには山上容疑者は被害者で情状で減刑すべきだなどと擁護する輩なども出ているのは正直残念なところです。これでは安倍氏に思いを持った多くの方々には何かと迷惑な話です。

少なくともあの日本の政治経済を大きく動かして多くの政治社会活動に貢献した元首相をいきなり銃で殺害してしまったことは紛れもない事実なので、殺人の動機がどうあれ、容疑者に情状の余地がないのは当然のことと言えるでしょう。いずれにしても、山上擁護者の主張は、昨今のナントカ殺人事件の若者の殺人犯も元々貧困で社会的被害者だったから同情すべきだという主張と同レベルです。

 

結果的にこの事件では、安倍氏や自民などの政府に対して賛否両論分かれてしまう結果となりましたが、特に安倍自民批判派の主張を見ていると、以前のモリカケ桜事件を思い出してしまったりします。正直、この事件での自民叩き派の主張はモリカケ事件での自民叩きと似たようなところがあるなと思っていたりします。

そして、この事件をきっかけとした統一〇〇云々の報道ネタは結局は左寄りによる安倍自民叩きの道具に成り下がっているという意見も見かけましたが、やはりまさにその通りだと感じます。都合が良いときには何でも保守叩きとして利用するのが左派の常套手段と言えるでしょう。

 

というようなことを考えていた一方で、ちょうど一周忌を迎えたのこの日でも事件現場ではまたもや不審な人物がいて警察に捕まりましたね。追悼すべき日のこのが、なぜか物騒な場所になってしまうとは何かと怖い話です。少なくとも今後これと同じような事件が起こらないように社会全体で努力していきたいものです。

 

 

安倍元首相の「国葬」遂に行われました。

 9月27日のこの日、いよいよ安倍元首相の国葬が行われました。7月8日に安倍氏参院選の演説中に突然銃撃され、亡くなられてから80日もの経った中で厳粛に行われました。

 国葬日までに賛否両論分かれていた印象がありましたが、当日、実際には国葬会場付近へ献花しに来た一般国民は1万人以上もいて、思ったよりも安倍氏を深く偲ぶ方々が多かったようです。

 安倍氏の首相時代での政策云々の良し悪しはともかくとして、実際には国際・対外的にはかなり高く評価されていましたし、長年の政権運営の功績や突然の事件で殺害という形で亡くなられたこともあれば、国葬で行うのもそれでいいではないかと個人的に思うところです。

 まあ、賛成できないのなら、自分から黙って参加しなければ良いだけの話だし、わざわざ騒ぐのは、周囲の多くの人に迷惑かけるという問題のほうが大きいんじゃないかと思うんだけどね・・・。

 何はともあれ、無事に荘厳に国葬が行われたのは大変良かったです。

コロナパンデミックはいつまで続くか

ここ3年間もの空白期間が続いてしまいました。

最近は日記よりも個人的な趣味や情報収集などに時間を取られているのもあります。

2020年2月ごろから中国やイタリアから世界中で新型コロナ感染症が流行し始めて、
早くも2年半が経ちますが、未だに流行期と閑散期を繰り返して世界中でパンデミック状態になっています。
日本でも、今年に入って第6波と第7波が襲い掛かってきています。
コロナワクチンも3回程度実施していますが、なぜ、これほど長くコロナ流行が続いているのか?
気になることとして、コロナウイルスの変異がベータ→デルタ→オミクロン株と多く生じていることです。
このウイルス変異により、ワクチン接種1~2回程度ではコロナ感染を防ぎきれないことがわかってきています。
また、その一方で、若者世代を中心に、コロナワクチン3回以上接種率が3割以下と低く、
それがコロナ変異種の感染者数が増加している原因の一つとも言われています。

それはさておき、本当にコロナパンデミックはいつまで続くのかが個人的気になるところですが、
そうは言ってもその予測自体が困難だというのが現状とも言えますね。
それほど長い間マスク掛けなど、コロナ対策を続けていくのが自分も含めてしんどいと感じているところです。

【量子力学】フラーレン分子の二重スリット実験から、観測問題の意識解釈は妥当か?

前の記事の続きです。

2重スリットから派生した実験は今まで様々な形で続けられているそうです。
その中で有名なのがフラーレン分子による二重スリット実験であり、実験結果では電子などと同じようにスリットを通ると奥側に分子衝突跡の干渉縞ができ、観測器で測定するとその干渉縞は消えるそうです。
つまり、フラーレンほどの大きい分子でも重ね合わせ原理による振舞いが見られるということです。
そこまでは良いものの、このことが何を意味するのかについて考える時、

フラーレンは高分子で、分子同士が相互作用をしたまま波動的な振舞いをした
 → よって、量子デコヒーレンス理論は否定される

という結論を出す人が出てくるようになってしまっています。
ここで問題なのがこのデコヒーレンス否定論は正しいのかということです。
まず、フラーレンなどの分子は電子や陽子などが常に結合のための相互作用していることは確かな事実です。
では、このときの結合作用は量子デコヒーレンスに適用できるのか?と考えると、本当にそうかと疑問に思うこともあり得るでしょう。
つまり、デコヒーレンスの相互作用は幾らか限定されたものである可能性もあるわけです。
スリットを通って波動性の振舞いをした分子が結合相互作用をしているからといって単純に量子デコヒーレンスが否定されると考えるのは早計だということです。

これにより、少なくともフラーレン分子のスリット実験での量子デコヒーレンス解釈否定論は成り立たないことがわかりました。

ということで、これで前に説明したシュレーディンガー猫問題が本当に解決した・・・わけでもないです。

量子デコヒーレンス - Wikipediaなどの説明によると、猫の生死などのマクロ存在の状態は、デコヒーレンスのみ100%完全に決定できるわけではないからです。
わずかな残りの原因として意識による観測、もしくは多世界解釈での世界分岐も関わる可能性も否定できないことになります。
結局のところ、現時点ではマクロ存在の状態収縮の本当の原因は謎に包まれたままです。
もっとも、ここで説明したフラーレン分子実験も含め、意識解釈の妥当性は現在はかなり低くなっていることは確かです。
ただ完全に否定できないだけで、デコヒーレンス説や多世界解釈などより妥当性は低いでしょう。
そもそも量子コンピュータなどで、外部の粒子による量子ビットのエラーが人間の意志と無関係に生じる現象がある時点で、
意識解釈はかなり不合理なものとなるとも言えます。

個人的には、波動関数の収縮は現在の科学からは未知な何かのメカニズムや作用があるだろうと考えています。
そう考えると、現在の科学はまだまだ未熟であり、それ故に量子力学観測問題など多くの謎が存在するのも無理はないとも思っています。

シュレーディンガーの猫のパラドックスの真実

量子力学観測問題で、よく語られるものの一つに「シュレーディンガーの猫」という思考実験があります。
量子力学に関心のある人ならお馴染みのことですね。
ただ、ここではその思考実験の内容や最低限の量子力学の基礎知識について身に着けている前提での説明なので、
そうでない人は他の科学系サイトなどで大まかにでも勉強していただきたいです。

 

それはさておき、こういう実験が提起されて以来、量子力学の重ね合わせや二重スリット実験に関する観測問題や解釈問題が
現在まで活発に議論される続けています。
ここで、なぜこの思考実験で猫が生死の状態が両立するような結論に至っているのかが誰もが不思議に思う所です。
もちろん僕自身もこの不思議さに悩んだことはあります。
そして、いろいろと考えたりサイトなどで調べたりした結果、解決できる一つの考えにまとまるようになりました。

 

ここで気づいたことは、「観測」とは何を指すのかということです。一般には観測は、人間の意識による認識を意味しているとされています。
しかし、厳密に調べてみると本当はそうだとは限らないことがわかってくる。
そして、量子力学での「観測」の別の意味として、観測器による検知のことを指しているという考えもあることがわかりました。
ここでもし、「観測」を検知器によるものだとすると、それがこの猫実験でのパラドックスの解決の鍵になるでしょうか。
改めて猫実験の内容を確認すると、箱の中を誰も観察しない限り、放射性物質原子核崩壊から検知器の検知、ハンマー叩きによる毒液袋破裂、猫の生死の状態まで
全て重ね合わせ状態になるとしています。

 

・・・とここで、異議あり!」


実はこういう推論の流れは、「観測」=「人間の意識による観察」を前提とするものになっています。
ここで、もし「観測」=「観測器による実験対象の検知」とすると、この検知器が放射線を検知した時点で検知された粒子の状態収縮することになります。
そして、それ以降の猫の生死に至るまでの全ての状態が一つに決まることになります。
つまり、この実験での猫の生死状態は、検知器の検知の段階で決まるということになります。
よって、本来の内容での検知器の重ね合わせ状態以降の説明は全て正しくないことになり、結果的にパラドックスは生じないということになります。

 

ということで、ここで一件落着。このパラドックスの正体は「観測」の意味を「人間による認識」としたことによる混乱だということが判明しました!
量子力学での「観測」は、観測器による検出作用のことを指すべきだったのです。
物理学界ではこういうことは早く気づいたようですが、俗世間ではこういう言葉の誤用に気づかないまま、非専門的な人たちにより「シュレーディンガーの猫」
パラドックス題材として、広まっていき、「生きている状態と死んでいる状態の両方を持っている猫」がいるというオカルト的な俗説が皮肉にも広まってしまったのであります。
SFなどに興味ある一般人が「シュレーディンガーの猫」の話をしたら、「ここでの『観測』は検出器によるものだから猫の生死の状態はどちらかに決まってるよ」と説明するのが良いでしょう。
参考までに、この「観測=観測器による検知」説は、デコヒーレンス理論を元にしています。

 

もっとも、それでも「観測=人間による観察」としか思えない人もいると思いますが、そういう人たちのためにこの説の正しさを合理的に説明する別の思考実験をここで示してみることにしよう。

 

まず、シュレーディンガーの猫実験での箱に小さなビデオカメラを入れて録画状態にして箱を閉めます。
しばらく時間が立って猫の死んだと思う時点で、別の誰かAを呼んで、そのAに箱のふたを開けさせ、一緒に猫の死状態を確認させます。
ここで、小さなビデオカメラはAに気づかれない位置に置くものとします。(もちろんAはそのカメラの存在は最初から知っていない)
そのあとで、そのビデオカメラで録画した動画をAに見せます。すると、Aが箱を開ける前に毒ガスが発生して猫が死ぬことがビデオに記録されていることがわかります。
そうです、ここでAが「自分が箱を開けて猫を観察する前には猫の生死状態は決まっていない」と主張する時点でこの動画の事実と矛盾することになり、結局Aの観測行為に関わらず猫の生死状態は検知器の検出作用により決定していることが示されます。
さらに、Aに実験箱の存在を知らせる前にAに猫の生死状態のビデオを見せ、その後でAに見せたビデオのカメラがこの実験箱の中にあるという説明をしてから、
実験箱を開けさせるという別の流れの思考実験も追加説明すればより説得力が増すと思います。
(もちろんAが開けるまでは箱中の猫などは誰も見ていない)
まさにカメラの映像写真は(後で編集加工作業でもしない限り)嘘をつけない正真正銘の事実を示すものですね。

 

ということで「シュレーディンガーの猫」の話をここで締めくくりたいところですが、さらにこのことについてよく調べたら、実は最近になって、
重ね合わせ状態の収縮がこのデコヒーレンス理論によって完全に証明しきれないことがわかっているようです。
つまり、観測器の検出だけでは説明不完全で、人間の意識による重ね合わせ収縮も100%否定しきれないということらしいです。

 

まあこれ以上の説明は長くなることもあって、別記事で後日説明することにします。以上お疲れ様でした。

「いきなり結婚」の増加は時代の流れからして当然のこと

少し前までは自由恋愛結婚が主流で数年前から婚活が増えてきましたが、ネットで色々と調べていくうちに、最近は男女が互いに恋愛経験を経ずに結婚する「いきなり結婚」が注目されるようになったらしいです。
これは昭和時代以前のお見合い結婚とある意味共通している所があります。

 → いきなり結婚 - Google 検索

まあ最近は恋愛意欲がない草食系などの若者が多くなってきているので、結婚も恋愛経験せずにしたい人も増えるのも不思議ではないでしょう。
そもそも若者が恋愛をしない理由を知ることが重要であって、国の調査によれば、以下のように理由として上げられます。

 

若者が交際を持たない理由

1位 恋愛が面倒   男52.6%  女61.0%
2位 自分の趣味に力を入れたい   男55.7%  女57.0%
3位 仕事や勉強に力を入れたい   男36.8%  女36.1%
4位 異性に興味がない   男11.7%  女22.2%
5位 異性との交際が怖い   男14.6%  女19.0%

内閣府 結婚・家庭形成に関する調査報告書2015 より)


やはり恋愛は面倒くさいのがダントツで、単にコミュ力や異性交際に自信がないことよりも恋愛自体の価値を重視しないことが大きな理由と考えてよいでしょう。
ではなぜ恋愛の価値を重視しないようになったかですが、これは人生において恋愛自体は必要なものでなく、むしろ趣味の一つにすぎないと思うようになり、恋愛するのにも時間、お金、駆け引き労力といった多大なコストもあり、他の趣味に比べて大きなメリットを感じられなくなったことが考えられるそうです。
草食系の男女が増えた理由も同じようなものだと個人的に思っています。
結局のところ今の恋愛は互いに愛されたいと思う自己中心的な要素が強く、それにより恋愛意欲に冷めた人も多いのかもしれませんね。

その一方で、両親からの押しや社会的評価、子供が欲しいなどの理由で結婚はしたいと思う若者も最近は多くなっています。
だから、結婚についても自由恋愛経験を重ねて結婚に至るよりも「婚活」を通して結婚するようになったのであり、
やがて恋愛交際自体を飛ばす「いきなり結婚」に至るのだということです。

団塊世代からすれば、恋愛のないいきなり結婚は異様に感じられ、中には恋愛しないとはヘタレだと思う人もいるようですが、実際にはこういう背景や事情があってのいきなり結婚や婚活が増えているということですね。
あと、お見合いやいきなり結婚など、恋愛経験がない結婚には自由恋愛に比べて意外と離婚率が低いというデータもあります。

こういったメリットもあって、いきなり結婚の増加はむしろ現代社会の変化からすれば自然の成り行きであり、何も批判する意味はないということですね。